まだ、余震が続きますね。
揺れる度に、あの時の揺れを思い出してしまって、恐怖におののいています。
あの日、3月11日のことを書きます。仕事中だったので事務所にいたのですが、ケータイの緊急地震速報が鳴り響きました。もう、揺れ始めてた頃だったと思いますが、まだ序の口でした。
はじめは、「揺れてる!」と声を出せたけれど、その後、あまりに大きな揺れで声を出すこともできませんでした。すべてを壊そうとするような、巨大な揺れ。遊園地の乗り物でも、なかなか味わえないような上下の揺れと、左右の揺れ。
本棚に並べられている書類が雪崩のように落ちて、机が踊り、電気が消えました。
最初の大きな揺れの後に、事務所の扉を開けました。じっとしているのが寛容ですが、出口の確保が必要だと判断したからです。その後、大きな揺れ、小さな揺れを繰り返しました。地震そのものもあるだろうし、小さな揺れはビルの揺れが続いていたんでしょうね。
宮城県沖地震が30年以内に発生する確率は、99%
周期的に起きるこの大地震は、宮城に住んでいる人なら誰でも知っているし、いつ来ても大丈夫なように、心構えはできていると思います。ただ、心構えができていたとしても、今回の地震はそれよりも大きく、なにより長いものでした。
揺れている最中に、ケータイのワンセグを着けました。まだ揺れている。でも、NHKの画面は「海」を映し、津波に対する警戒を繰り返し告げていました。アナウンサーのその切迫した様子に、これはただ事ではないなと確信しました。
揺れが完全に収まったのは約20分後。事務所の惨状もそのままにおそるおそる事務所から出る。エレベーターは使えない。ところどころ壁に亀裂が入っている。外に出ると、道路じゅうに溢れる人。時折、余震があり、ビルがしなやかに揺れている様子が見えました。騒然。ここまでで地震発生から約30分が経っていたと思います。
これは確実にみんなに心配をかけるな、と思ったので、咄嗟にブログやmixiに「無事です」のメッセージをメールで送って投稿しました。多くの友達にブログやmixiの存在は知られているし、ケータイは使えなくなる可能性があるので、つながるうちに短いメッセージを載せます。
とりあえず今日はもう仕事は難しいということになり、帰宅することになりました。
会社のおばさんが、立体駐車場に車を止めてしまったので出せないということで、家が近いオレのところに一緒に帰りました。どう考えても鉄道も動いてないだろうと、容易に想像できたからです。16時前くらいでしょうか。今思えば、次の災害が沿岸の漁村を襲った後だと思います。その瞬間瞬間に、多くの人の命が奪われていたんだと思います。
帰ろうとする人が多く、仙台駅前は人であふれかえっていました。駅は、通常、ペデストリアンデッキ(大きな歩道橋)で2階から入りますが、このペデストリアンデッキがまた壊れている様子でした。
水分が欲しかったけれど、自動販売機は停電しているのでストップ。コンビニはとりあえず、真っ暗な中で対応していたけれど売っている様子はない。軽いパニック状態で、まさにこれから混乱が始まるその入り口でした。
ガソリンのにおいが漂う地下駐輪場から、なんとか自分の自転車を探し出し、家に帰ります。余震が時々襲ってきて、足下を揺らします。机の上立てた鉛筆。電柱が、そんな感じで揺れていました。
家は、大きな揺れがあったこともあり棚のモノが全部落ちていました。とりあえず、おばさんには冷蔵庫にあったコーラとお菓子を出して落ち着かせ、散らばった部屋の整理をしながら、とりあえず必要になりそうなものを探しました。
懐中電灯、ありったけの電池、ケータイ充電池…
まもなく、日が落ちて暗くなる。さてどうするか。このままいてもいいけれど、真っ暗で、暖房もない。時々大きく揺れる。このまま家にいてもしょうがないので、避難所に行くことにしました。近くの小学校。
周囲が薄暗くなるその頃、すでにかなりの人が避難所に集まっていました。体育館に行くと、周囲に紅白の幕が張ってあり、壇上には「卒業式」の大きな文字。並べられた椅子とマット。肩身が狭いと思いながら、なにをするわけでもなくその場に座っていました。だいたい18時くらいです。
どんどん寒くなる。どんどん暗くなる。
つい3時間前に発生した非常事態に、的確な対応なんてできない。体育館にも非常時の照明設備があるわけでもなく、あっという間に真っ暗になりました。
気がつくと、情報が欲しくなります。地震が起こったことは分かっているけれど、どうなっているのか分からない。暗闇が不安を助長していく。
ケータイの電池が気になるけれど、ケータイのワンセグでテレビを付けると、そこに映ったのは津波で流されていく様子でした。「地震が来たら津波がくる」。海沿いに住んでいたオレは、学校でも家でも、昔話でもその恐ろしさを聞いていました。でも、そんな自分でも驚いて目を覆いたくなるような、まるで映画を見ているような信じられない気持ちで小さなケータイの画面を見続けました。
ある程度、どのような状況になっているのか分かったので、ケータイは閉じました。なにかのときの連絡手段であり、今、ケータイの電源がなくなるといざというときに使えない可能性があるからです。家にラジオがあったことを思い出し、戻ることにしました。21時くらいでしょうか。
小学校を出ると幹線道路があるのですが、車が渋滞して進めなくなっていました。今、考えれば、それは単なる帰路を急ぐ車が増えたというわけではなく、そのずっと先が津波に襲われて道がなくなっていたんです。ただ、そのときは、まさかそこまで津波が入ってくるとは思いませんでした。車のヘッドライトだけが明かりで、街は真っ暗、公衆電話は長蛇の列、そして仙台では見たこともないような漆黒の夜空に、たくさんの星が瞬いていました。東の空が明るくなったり、暗くなったりを繰り返し、製油所が燃えているのが分かりました。
津波は怖いですね。いくらそこで爆発事故が起こっていても、消防が近づけないんです。道にがれきが覆い被さっているから。被害状況を把握する前に暗くなっているから、道が生きているのかどうかも分からない。
真っ暗な家の中で、食べ物をかき集め、小さなラジオを探して避難所に戻りました。その頃になってやっと避難所に来る人もいたようです。避難所の外では、すでに入れずに車の中で過ごす人もいたようです。とにかく寒くて、暗くて。
ラジオで情報収集しながら、近くにいる人たちと情報収集をしていました。
自家発電で明かりが灯り、たぶん近くの給食センターで作られたであろうワカメご飯やおにぎりが配られました。あまりにも人が多すぎて、なかなかもらうことはできない。食べ物よりも困るのは、水分。水道が出ないので、のどが乾かないようにしながら少しずつコーラを飲みました。地震発生確率99%。仙台の避難所は、あらかじめ備えがしてあったんでしょうね。真空パックされた毛布をもらって、パイプ椅子の上にくるまり寝始めたのが22時か、23時か。
もうその頃になると、いつまでここにいればいいのかな。寒さと不安と、いろんなことが入り交じった中で、いつまで?というのを考えていました。まだここに来て数時間しか経ってないのに、そう思ったんです。なので、今、現在も避難所で生活をせざるを得ない人のことを思うと、その心中がいかばかりかと心が痛くなってきます。
オレが避難した場所は、街中で津波の被害もなかったので、水、おにぎりといった救援物資をすぐにもらうことができました。でも、海沿いの街は道路が寸断されて、避難しても食べ物も飲み物も、明かりも、情報もなかったのではないかと思います。
パイプ椅子で寝るのがこんなにつらいのかと思いながら、長い夜を過ごしました。椅子の座面に頭を乗せてみたり、座ってみたりの繰り返し。落ち着かない周囲。家族や親類と連絡が取れずにいるのだから、当然だと思います。
白々と空が明るくなってきているのが、体育館の窓から見えました。5時前くらいだったか。一緒にいたおばさんをつれて避難所を出て、オレは実家に帰ることにしました。
道路はすでに空いていました。帰り道、海沿いと山沿いの2つのコースがありますが、迷わず山沿いを通ります。大きな揺れだったわりに、道路の破損箇所はそれほど多くなく、建物被害もあまりないようでした。ビルの向こうに見えたもくもくと煙を上げる製油所。田んぼの向こうに、山の向こうにと近づきながら。
塩竈の街に近づき、津波が意外に奥まで入ってきていることが分かりました。古い商店街の中。アスファルトの色を見れば分かるということを、このとき初めて知りました。津波が入ってきたところは、泥で覆われているんです。ゴミがあちこちに散乱していて、自分が知っている風景とは違った、異様な風景でした。
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